人生を動かすフレーズ5:怒りに固執することは薪の燃えさしを相手に投げつけようとしてそれを握りしめるようなもの。それにより火傷を負うのは自分自身である。

名言5

 怒りに固執することは薪の燃えさしを相手に投げつけようとしてそれを握りしめるようなもの。それにより火傷を負うのは自分自身である。

 

 今日はこのブッダさんの名言から学ばせて頂こうと思います。私たち人間の感情で1番厄介なものは何でしょう。私はそれは憤怒、つまり怒りだと思っております。この世の事件という事件は9割怒りが原因でおこってしまったと言っても過言でありません。一時的に燃え上がった怒りの力で相手を殺めてしまうという事件は悲しい事ですが良く聞きますね。怒りというのは正に相手だけでなく己も破滅させるほどのある猛毒な感情なのです。心に燃え上がった怒りを鎮火させる術を身につけなければ人間は簡単に怒りに支配され、思考よりも感情で行動し、結果後悔するでしょう。それが「それにより火傷を負うのは自分自身である。」の持つ意味だと思います。では怒りを鎮火させる術とはどのようなものなのでしょう。

 

 皆さまがお怒りになる際の状況を思い起こして下さい。お怒りになる理由は様々ある事でしょう。基本的に私が考える怒りの種類は3つ御座います。

1、相手に対して抱く怒り

2、思うようにいかない自分に対しての怒り

3、この社会や、情勢などより大きな"環境"に対する怒り

あなたのお怒りはこの中のどれかに当てはまっているでしょうか。それ以外の怒りを抱えている方がいらっしゃいましたら是非コメントでご教授下されば幸いです。このなかでも特に強く、やっかいな怒りは1の相手に対する怒りでしょう。それに焦点を当ててお話致します。

 

 まずお相手に対して怒りを感じると、心の中でモヤのようなものが現れます。「あいつ私に対してこんな態度をとった」や「私を貶すあいつは許せない」などというモヤですね。そう一度思うとそれからさらにそのモヤは増幅します。「よく考えたら前からあいつの事は気に食わなかった」や「そう言えばあいつのあの性格は私と全く合わないし気に障るの」等とそのお相手の自分にとってマイナス評価の部分を掘り下げてもっと怒りを増幅させてしまうんですね。森で最初は1本の木が燃えていただけなのに次々に燃え移り最終的には森全体が火に包まれるような感覚です。怒りは連鎖しさらに増幅するようになっております。そうなるともうそのお相手の顔を見るたびに腹が立ち、あなたはマイナスの感情に憑かれてしまった状況です。ここで思い返して下さい。お相手に対して怒ると疲れませんか。怒りは1日中あなたの心と頭に憑いてぐるぐる循環しているので休む間も与えません。そしてお相手に会うたびにその感情があなたを蝕む。まさに相手への怒りが自分を傷つけるようになり、負の連鎖に陥る事にも繋がります。 ですのでお相手に対して怒るという事は実は全くの無意味、むしろ自分にとってマイナスでしかないのです。その連鎖を断ち切る方法。それは許す、というそれだけのことなのです。実はこの許すというう事は簡単そうでとても難しい事です。あなたの人間としての器が試されます。もし今これを読んでいるあなたが「許すだって。それが出来ないから怒ってしまうんだよ。」とお思いでしたらあなたは人間としてもっと鍛える良いチャンスがここにあります。

 

 例えばお相手があなたにぶつかってきてあなたは謝ります。しかし相手は短気で怒りであなたに暴力をふるったとします。もしここであなたも怒り手をあげたらあなたもお相手も怪我ではすまないかもしれません。そこで「ああ…この人はきっと人生上手くいっていなくて常に怒りに囚われている可哀そうな方なんだ。許すよ」と許してしまえばあなたはその出来事を水に流して後にひっぱる事はないでしょう。ここで恐らく「いいや。馬鹿馬鹿しい。私なら相手を一発で打ちのめせるから自分が傷つくこともなく相手を負かすよ。気分もすっきりするでしょその方が」という方もいらっしゃる事でしょう。そうではないのです。そこでその行動をしてしまえばあなたはその程度の人間になってしまいます。怒りを怒りで返すという行動はあなたを修羅の道、闘争の世界へ導きます。心の安寧なんてないその世界で生きて死にたいのならそうなさい。しかしこれを読んでいる方の大半は安寧を求め読んでくださっているはずです。

 

 先ほど例を挙げましたが許すというのは器量が必要ではあります。しかしこの許すという行為ほどあなたを成長させる物はないでしょう。ハッキリ申し上げて怒りに囚われすぐに感情をむき出しにして行動する方がこの世の中には多すぎます。しかしあなたは違います。あなたは周りが燃え上がっていても常に静かにすっと澄ましているのです。そして許しとは、相手も救うことに繋がります。「私はなんてひどい事を言ってしまったんだろう。」「感情に流されて怒って…私馬鹿みたいだ」とお相手に思わせるように許してあげるのです。ブッダさんの言葉の翻訳でこのようなものがあります。「敵の怒りに対して君は怒らず朗らかにしている。するとある敵はその怒りで自滅し、ある敵は悔み生まれ変わる。」私の意訳で恐縮ですが、この言葉が何を物語っているかここまで読んで下さった皆様ならお分かりになるかと思われます。

 

 最後に、今回の記事は今まででも最も行う事が難しく、理想論だと思われるかもしれません。しかし道半ば青二才の私は馬鹿正直に許す、許すを出来る範囲で行い本当に自分の心境や周りの人間がその私をみて変わったなと実感しております。理想論かもしれない。夢物語かもしれない。でも私は信じてこの道を歩んでみたい。もしそれに少しでもついていってみようかなと思う方がいらっしゃるのなら私はこのブログを書き続け伝え続けていきたい。そう思う次第です。

 

平穏な兎より

 

 

人生を動かすフレーズ4:まず先に自分を正しく整えてから他人に指摘せよ。そして他人に指摘したことは自分も実行せよ。

 

名言4

 まず先に自分を正しく整えてから他人に指摘せよ。そして他人に指摘したことは自分も実行せよ。

 

 このフレーズについて今回はご説明したいと思います。まずハッキリと申し上げる事とこれが実際に実行出来ている方は人間として超一流のお方です。私も肝に銘じていてはいるのですが気を緩めてしまうとこの言葉に背いてしまっていたなと後々感じる事が多々あります。それでは参りましょう。

 

 他人に対してあれこれ指摘する事はとても簡単です。例えばあなた自身が会社や学校なら部活で上の立場の人間であったとします。そして新しく入ってきた新人を見るとやはり抜けている所が目についてしまうんですね。そこを指摘してあげるというのは先輩として当然でありそのあなたの指摘のおかげで後輩は育っていくわけです。それはとても良い事ですし社会はそうやって後を継ぐものを成長させてきたという事で間違いないかと思います。しかし、読者様にもこのような体験はございませんか。ある時上司、先輩から指摘を受けます。その時に「ちぇ。あなただってそれ出来てないじゃないか。この間だってあなた私と同じ事してたのに私には怒るんだね。」という様なことです。実はこのように、指摘した側もその指摘内容が完璧に出来ていない事は多々あるのです。それは人間は完璧でいられる生き物ではないですし、ミスや間違いはどんなに年月をかけて己を磨いた人間にもある事です。我々はロボットではないですからね。しかしその間違いを指摘する時、自分にも同じように言い聞かせている方はどれほどいらっしゃるでしょうか。他人のミスは見えやすいですが自分のミス、欠点は己では見えにくいものです。前の記事でも申し上げましたが、人間は己の事は肯定的に甘く見てしまう為どうしても指摘していて実は自分もその部分は2流であるという事はもしかしたらあなたにもある事なのかもしれません。

 

 では指摘するなということかと疑問を持たれる方もいらっしゃるかもじれませんが、断じてそうではありません。ここに私事で恐縮ですが、私が他人に注意する際の流れを例として書かせて頂きます。

 

 まずその他人が過ちを犯したなと思った際、すぐに注意するのではなくまず過去の自分を思い出すのです。すると同じようなミスをした過去を思い出します。この時何故自分はこのような過ちを犯してしまったのか、その時の周りの環境はどうだったか、自分の心境はどうだったかを瞬時に己に問いかけるのです。それからその他人に話しかけます。その時に「~さん違うよ。そうじゃないこうやるんだ。」という言い方は私は好みません。「なんで何度言ってもわからないかな~」などご法度です。ちなみに何度言っても分からないなと仰ってしまう方は自分の説明に原因があるかもしれないと己に問いかける事をお勧め致します。そうではなくあくまでも私の場合ですが「~さん。それはこうするともっと上手く事がすすむかもよ。私も過去に同じようにやってしまった事があるのだけど~という原因があるから上手くいかなかったんだ。だから今度からそのようにやってみなさい。」と指摘するようにしています。まず、そのお相手だって必死に生きているわけです。その結果ミスとなってしまった事をすぐパッと否定してしまう事はそのお相手の努力を踏みにじる事に繋がってしまうことも多いのです。否定するのではなく、「~したら~になるね。」という法則を教えてあげるのです。そうすることでお相手もこれが原因で何がいけなかったのかが明確になり、自分で自分を律するようになります。お相手がただ否定されたと感じてしまった場合、それが怒りや憎しみとなり自分を律するどころか指摘したあなたに反感を持つという負のスパイラルに陥ってしまいます。これでは何も意味がないですね。そして指摘する中で自分にも言い聞かせるように「私も過去同じようにしてしまった。」と付け加えるのです。その私の過去の教訓もそこで添えれば、お相手にとっても良い教訓となります。

 

 私のは一例ですが、他人を律し己を律する。他人を見て悪い部分や、指摘すべき箇所を発見したらただそれを指摘するのではなく自分も同じような所はないかと自分を見詰め直し、それから指摘する。そうするだけであなたの指摘はお相手にとってもご自身にとっても良薬となる事でしょう。

 

平穏な兎より

 

 

人生を動かすフレーズ3:「私は愚かである」と認められる者こそ賢者であり逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶ。

名言3

 「私は愚かである」と認められる者こそ賢者であり逆に「自分は賢者である」と思っている者こそ、愚者と呼ぶ。

 

 今回はこのフレーズについてお話させて下さい。これは私にとってもそして日々精進を重ね生きている全ての方にとっても永遠の課題なんじゃないかと思う次第です。

 

 人間誰しもそうですがやはりどこかで自分にプライドがあり、自分を肯定しがちな所がございます。私はこれだけの事をしてきたんだ!とか私は皆より努力してるから偉いんだ!等といった具合にやはり傲慢になってしまいがちです。もちろん努力を重ねて結果を出した事自体は素晴らしい事で、あなたにとって立派な勲章でありましょう。しかしもしそこで「私は賢者だ。私は正しいし素晴らしい人間だ。」と驕ってしまってはそこで成長は止まってしまい、やがて老いて実力も衰えそこには何もなくなってしまうかもしれません。その結果過去の栄光にすがり過去ばかりにとらわれてしまう高齢者が出来あがってしまう。

 

 突然ですが完璧とはなんでしょう。もしこの答えにパッと回答が思い浮かべられる方がいらっしゃいましたら是非コメントを頂けたら幸いです。というのも、私は全くこの答えが分からないのです。もちろん辞書で出てくる文字の意味は分かります。しかし完璧、完全の定義が言い表せないのです。私は完璧、完全な人、物はないと考えております。もちろん「俺は完璧だ!」とか「この私の考案したプロジェクトは完璧だ!」という事で己の中では完璧になるのでしょう。しかしあえて申し上げます。完璧なんてないのではないかと。完璧と思ったその時点で自分でその先の道に終止符を打ってしまうのだから終わってしまうじゃないかと常々思うのです。成功していらっしゃる経営者の方々は口をそろえて仰います。「完璧と思ったらそれでおわり。まだ何かあるんじゃないかと思い続けるからこそ成長していくのだ。」と。漫画家の方や音楽家、デザイナーなどの所謂芸術家の方々も同じです。「まだ私の芸術は完成されていない。私の作品はまだもっと表現できる。」と。そう歩み続けるからこそ、永遠に止まらず驕らず成長出来ているのだと確信しております。

 

 「私は愚かである」と認められる者。これはつまり驕らず常に自分に対して厳しく律しているものであります。「自分は賢者である」と思っている者。これは自分はもう完成されていると驕ってしまいそこから成長を止めてしまった者。私はそうこのフレーズを解釈しております。これは本当に難しい事でやはり誰でも驕り、自分のしてきた事を自慢したくなるもの。だって他人より頑張ったんですもの。しかしそこでまた己を律し、私は愚かだと思う事でさらにあなたは素晴らしい人間になるでしょう。それこそ、完璧に近い人間に死ぬ最後の時なっているかもしれませんね。

 

平穏な兎より

 

 

人生を動かすフレーズ2:沈黙している人も非難され、多くを語る人も非難され、少し語る人も非難される。世に非難されない者はいない。

名言2

 沈黙している人も非難され、多くを語る人も非難され、少し語る人も非難される。世に非難されない者はいない。 ブッダより

 

 これもとても有名なブッダさんのフレーズですね。読んで字の如くの意味ではありますがこれをしっかり理解できていれば生きるのがだいぶ楽になるでしょう。今回はこのフレーズを私なりの解釈で説明させて下さい。

 

 現代では特に出る杭は打たれるのように普通と違う人間を叩く風潮にあります。インターネットの世界なんか特にそうですね。他人を褒めたり敬意を表したりすることは減り、むしろ悪意を持って攻撃する書き込みが多く見られます。ではまず何故そのように現代では負の感情の方が多くなってしまうのでしょう。少々話がそれてはしまいますが大事な部分ですので書かせて頂きます。

 

 私の持論ではありますが、他人を叩いたり、貶す事を好む人間は総じて自分に自信がなく、自分を磨く努力を怠りなおかつ実力を持っていない方がほとんどです。これはハッキリと申し上げます。自分を鍛え、人間的に熟した者であれば他人への攻撃はしないものです。なぜなら彼らは悪口を言うという事から何も生まれないし、むしろ自分という人間を損なうことであると心から理解しているからです。他人を攻撃する暇があれば彼らはそれを自分の心に向けて「自分もこういう所が未熟だから成長せねば」と正す習慣が出来ています。それを怠り妬み、漠然とした怒りなどからすぐに他人を批判しそれが自分に将来どう影響するかも深く考えない方があまりにも多すぎる。しかしそれはあなた方のせいだと決めつける事は致しません。なぜなら今の社会があまりに余裕のない若者を多く生み出している張本人だからです。その事は別の記事で主に扱いますのでここでは控えますが、やはりその余裕のなさや、自分への失望、競争社会での不安感などが心にもやもやと浮かび上がりネガティブになり他人の幸福や実力を素直に認め称えることが出来なくなっている要因となってしまっているでしょう。しかし悪口というのは相手を傷つけているようで実は自分を一番傷つけているもの。悪口、妬み、嫉妬に侵された人間は最後には誰からも相手にされず破滅するでしょう。もし今これを読んでくださっているあなた方の中に思い当たる節があると感じた者がいらっしゃいましたらすぐおやめなさい。そして今日からその時間を自分への向上、相手の悪いところではなく良いところを見て自分に取り込みなさい。そのように生きていればあなたはきっと素晴らしい生き方をするでしょう。

 

 話がそれてしまいましたが、これが悪口を言う人間の背後にあるものです。ですがある意味これは人間の特性とも呼ぶ事が出来ます。なぜなら今より何千年も前の資料にもこのような妬みから来る悪口や、イジメなんかがあったという資料が発見されています。いくら文明が発達してもそれは変えられなかったのです。人間とはそういう部分があるのです。恐らく誰からも好かれ誰にも嫌われない人間というのは存在しないでしょう。どんなに正しく行動しているつもりでも怒りや反感を買ってしまうことだってあります。ですので当然そういうことだってあるよね位に思って己の道を進み続ける事が大事なのです。

 

 過去の私がそうであったように、いじめられた過去を持つ方に多いのですが非難される事にとても敏感になります。自分の事でないのに裏でこそこそ言っているのを聞いてしまったら「私の事なのかな…」と頭を抱え込んでしまう事だってありますものね。過去に非難されすぎて出来るだけ非難されないようにしっかりしなきゃと顔色を伺いながら生活する事は容易じゃありません。毎日に神経を使い疲れきってしまいます。しかもそうしているにもかかわらず非難されてしまうということも珍しくありません。ですので、非難されていい!私は偽らない本当の自分であっていい!周りがなんと言おうがこれが私なんだ!と思って毎日を進んで良いのです。有名なアーティストなんかもファンと同じくらいアンチと呼ばれる方がいるものです。これはもう仕方がないのです。どうせどう生きてもあなたを非難する者が出てくるのですからあなたは何もそれに恐れる事無く「あ、なんか言ってるな~」程度で流してしまいなさい。ただしなんでも非難と捉え、自分が正しい!絶対だと思ってはいけません。非難のように聞こえ実はそこが自分の未熟な点で、己を成長させるヒントが見つかる場合もあるのです。そこまでになればもうあなたは一流の素晴らしい人間で私から申し上げられる事はないでしょう。しかしすぐにそうはなれないものですし、私も道半ばです。ですのでまずは非難されても山のように動じずずっしり立っている。そこを目指すのはいかがでしょうか。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ1:人間は「私はこういう人間だ」と自分で考えるとその通りになる

  名言1

 人間は「私はこういう人間だ」と自分で考えるとその通りのものになる。それと異なったものになることはない。 ブッダより

 

 これはとても有名な仏教の教祖であるブッダさんのお言葉です。このフレーズは正に今あなたが今の自分を変えたいと願う方の支えになるでしょう。私流にこのフレーズを解説させて頂きます。

 

 現代の方にあることなのですが、とにかく自分を自己分析する方、出来る方がとてもすくないです。「私は本当はどういう人間なんだろう。私が目指している生き方って一体なんのかな。」と自分に問いかける時間を持つ若者は減りました。原因としては時間をつぶせるゲーム、スマートフォン、パソコン、テレビなどの近代的な機械の出現でしょう。皆さま自分の生活を思い返してみて下さい。例えば電車の中。あなたはどう過ごされていらしゃいますか。恐らくほとんどの方がスマホをいじっていますとお答えになるかと思います。それでは家では何をされてすごされているでしょう。ゲーム、スマホ、テレビ、パソコンを使っているとお答えになる方が9割かと思われます。悪いことでは決してございませんし、そのようにいつでも楽しいメディアに触れる事が出来るようになった近代化は素晴らしいものだと思います。しかしそれはつまり考えるという大事な時間を失っているということでもあります。今の時代は考えなくただ流れに任せて適当に生きるという事ができてしまいます。何か人生でトラブルがあったとしても原因を考えずにメディアに浸って忘れたり、「まあ、いっか」と流す事が容易になったともいえます。ストレスを溜めないという意味ではとても大切な時間なのかもしれません。しかしずっとそうやって生きていると、本当に大きなトラブルを抱えてしまった時に、考えて乗り切る練習をしていない為に息詰まってしまいます。最近の30、40歳の方の自殺が多い理由もここにあると私は考えております。

 

 考えるという事は言葉を変えるなら、自分で自分の事を知る為に自己分析をしてみるということです。自分の事だとしても実はこの時間を作らないと自分とは何かを見失います。世間が好きと言っているから私も好き。周りがこうした方がよいというからそれが正しいのだろう。そうなってしまっている方がとても多いのです。あなたという人間はとても複雑に出来ています。例えばあなたが今30歳であるなら30年培ってきた経験、人との出会いや学んだ知識等があなたを構成しているのです。30年かけて作られたあなたが複雑じゃないわけがないですよね。どう考えて生きてきたのか、どういう思いを抱え歩んできたかの結果が今のあなたです。あなたは生きた年数の集大成なのです。もしそれが薄っぺらいとご自分で感じてしまったのなら恐縮ですが己について考えるという時間の絶対数が足りていないと思われます。自分を見つめ常にそれと向き合い時には甘い自分を叱り、妥協しそうな自分に渇を入れるなどして己という人間を矯正する。これを行ったか否かで人間的な深みが全く変わってきます。行ってきた人間は自分という芯が見えているので何をし、何に直面してもぶれる事無く真っ直ぐに歩み続ける事が出来ます。

 

 そういう事をせずに生きてきた人間は怠惰に、傲慢に、そして感情や欲のままに怒り嘆くようになってしまうものです。

 

 あなたとはなんですか。あなたはどういう人間になりたいですか。1日に10分でも良いのでそのような時間を作ってみるのはいかがでしょう。私の場合、朝必ずお風呂でシャワーを浴びますが、その時に必ず毎日自分を見つめなおすようにしています。良い事、悪い事が生きている限り誰にでも起こりますがこの時間のおかげで常に冷静でいられる自分がいるのです。今のあなたとは。そしてなりたい未来とは。今日からです。今からそれを考える習慣をつけてみて下さい。

 

平穏な兎より

 

私という人間 私の過去3/3 中退後~現在に至るまで

 さて、中退後はどうするか全く決められないまま日々悩むばかりでした。実は大学1年生の時に初めてバイトを経験したのですが、その時運悪く店長が自分と全く合わない人間で私にとても理不尽な態度や言動をしていた事がトラウマで自分はきっと社会に出る事は出来ない、私のようなマイノリティはどこに行っても上手くいかないだろうとその時からネガティブ思考になってしまっておりました。仕事はしなくてはならない。しかし仕事に行きたくない。自殺をする勇気もないから生きなくてはならないし、その為にはお金が必要です。私はこのまま引き込もるわけにはいけない、とにかく嫌とか言っている場合ではないから私でも出来そうな仕事を探そうと必死になりました。そこで選んだのがごみ収集作業のアルバイトでした。私は元々プライドが高い人間でしたので大学生時代でしたら決して選ぶ事のないような仕事だったと思います。しかし最早私にプライド等一欠けらもございませんでした。低く、くだらないプライドは人生において何もプラスにはならない。だから私はこの世で1番無知で愚かな人間なんだと思うようにしたのです。ごみ収集作業のバイトの概要は収集車に乗り、集積所のごみを次々に後ろに積み込みそれを午前、午後ひたすら繰り返すというものでした。結論から申し上げます。今の私の社会人としての基礎は全てここで学びました。誇張表現抜きでどうしようもない自分を鍛えるにはこれ以上にない最高の職場でした。もしこれを読んでいる方で引きこもってしまっている方がいらっしゃいましたら是非思いきってまずごみ収集の仕事に応募してみてください。騙されたと思って働いてみてください。全てがひっくり返るでしょう。止まった人生を動かす起爆剤となるでしょう。

 

 業務内容を詳しく書くことは致しませんがざっと概要を書かせて頂きます。基本的には前述したとおりの作業ですので難しい事は何もございません。しかし日頃運動をしていない方ですと最初は結構厳しいと思います。実際私はもう4年も運動の週間がなかったので出勤初日は疲労困憊でした。それでも私は「もしここで投げ出したら一生そうやって生きていくんだろう。ここで辞めたら死ぬしかないんだ。」という思いで必死に親方についていったものです。

 

 初めて三カ月もたつと体も慣れてきて大変とは言え何不自由なく業務が出来るようになりました。そしてその頃になって親方のうちのある1人の方が仰って下さった言葉があります。「平穏な兎さんは本当によく仕事をしてくれるね。今の若いアルバイトは意識が足りないって言うのかな。正直全然ダメなんだけど君は違う。たったの三カ月でこんなに出来るし何より本当に助かっているよ。ありがとう。」そう仰って下さった事を今でも覚えていますし、この言葉が私を社会人にしてくれたのです。こんな私が他人から感謝されるなんて、とこの日は泣きました。私もこの世界で生きていいのかもしれない。社会の1部になってもいいのかもしれない。そう思えたからでした。

 

 その次の日から私はもっともっと仕事をがんばるようになりました。何をすればもっと親方たちが喜んでくれるか。言われなくてももっとしてほしい事は何だろう。そう思い常に本気で働いたものです。私が本当に幸運だったことが、仕事場の方々全員が本当に心やさしい方ばかりだった事です。実はこの仕事は体が慣れてしまえば全くストレスなく毎日働くことが出来るのです。だから皆さまとてもまっすぐな心をしていらっしゃいました。もちろん事務所にもよるし全員が全員そういう方ではないでしょうけど私の周りはそういう方に恵まれたのです。だからこそ私の仕事に対する姿勢や努力はとても正当に評価して下さいました。私はそれが嬉しくて嬉しくて仕方なかったのです。

 

 入って1年もすればベテランアルバイトです。私は本当に皆さまにかわいがって頂けました。そのころから親方たちは私に興味を持って下さるようになり、よく人生相談や、ごみ収集を通して社会とは何かということを教えて下さるようになりました。ここでご教授頂いた社会への姿勢が今の私を作ってくれたのです。社会大学と親方は仰っていましたが「平穏な兎さん。私たちは大学にはもちろん行かなかったし、学力だって全然ない。でもこうして働くと毎日がなんでも勉強になるんだ。大学でこんなこと教えられなかったでしょ。働くってすごいんだよ。」というこの言葉が、私を仕事する理由となったのです。仕事ってすごいもっともっと社会で勉強したいと思うようになりました。

 

 初出勤から2年がたち、ごみ収集のアルバイトも絶好調でこのままここで生きていくのだろうかと思っていた矢先の事でした。仲良くさせて頂いていた内の1人の親方が私にこう仰って下さったのです。「平穏な兎さん。君は本当に優秀なアルバイトだしうちらとしてはもちろんずっといてほしいと思っている。でも僕は君はこれ以上ここに留まるべきじゃないと思うんだ。この仕事は他の仕事と比べると圧倒的にストレスが少ないから1度この業界で働くと9割の人はこの仕事から抜け出せなくなるんだよ。僕らは正規の公務員としてここで働けるけどやっぱりアルバイトっていう立場だと今後どうなるか分からない。それに君は一緒に働いて確信したけどこんなところで腐っていい人間じゃない。もっと上にいけるはずだよ。もちろん留まりたいというなら止めないしむしろ歓迎だけど、1度よく考えてみたら。」とほほ笑んで下さいました。その言葉はとても心に残り、私を考えさせるきっかけとなりました。実際不安はあったのです。実家住まいで給料は上々。しかし万が一親に何かあったら生きていける給料でないし、何より私の人生これで終わらせていいのかという気持ちがありました。そこで本気で考える事にしたのです。私はこの社会で何がしたいかを。

 

 これを読んでいる皆さまで「私は~がしたい」と断言出来る方はどのくらいいらっしゃるでしょう。実は答えられる方はごく稀なのです。ましてやその本当にやりたい事を仕事に出来ている方はとてもすくないでしょう。私もこの時断言できませんでした。過去に国際系の大学に通い、留学したものの私はこの世界では私は生きてはいけないなと分かっておりました。確かに海外の雰囲気も大好きですし、他国の方とお話することも大好きでした。しかし私の言語能力はこの世界で生きていけるほど高いとはお世辞にも言う事が出来なかったのです。もちろん努力が足りなかった事もありますが何より言語習得に本気で時間を割こうという情熱がどうしても湧かなかったのです。ただでさえシビアな世界でこの程度の覚悟で生きていけるはずがないと思い海外への思いは断ち切りました。では私は何がしたいのか。それを考え続け私は思い出したのです。そういえば私は人間が大好きだったのだという事をです。小さい頃ずっと思い浮かべていた思いであり、過酷な環境を生きる内に忘れ去っていたあの感覚を思いだしたのです。どん底の時から救ってくれた友人たちとの出会いとごみ収集の親方たちとの出会いが再び私をあの頃に戻してくれたのです。結局私は人に汚され、人に洗われたのでした。たくさん嫌な人間に会ってきました。しかしそれ以上に私は彼、彼女達から人間の美しさを学びました。私はポジティブに生きたい。もっと人間と関わってそれを見たい。今まで色々な人間に迷惑をかけたから今度は私が何か手助けしたい。そう心から思い私は決断致しました。接客業で、美しき和の心を学べる場所で色々なお客さんと接して、修行してみたいというのが答えでした。

 

 ごみ収集の最終日はとても悲しかったです。しかし皆励まして下さって「もう戻ってくるなよ!」なんて私の背中を押して下さいました。私はここで巣立っていったのです。

 

 私はまさに運命的としか思えないような出会いで接客業の正社員となる事だ出来ました。今の私の上司に当たる人が直々に面接をして下さったのですが後に彼も「運命的だった。君しかいなかった。」と仰って下さったものです。私は出会いの運だけはあったのかもしれません。

 

 そして働くようになりましたがもちろんごみ収集とは全く違う職種ですので手順なんかはもうちんぷんかんぷん。初めはよく注意されたり、怒られました。しかしあの時鍛えた精神力と体力、そして何をすることが本当に職場の人に、お客さんの喜びに繋がるのかを考えながら妥協せず働く姿勢は本当に役に立ちました。馴れないながらも必死で働くことで私は少なくても自分では成長出来ていると日々実感しておりました。

 

 仕事も半人前とはいえある程度出来るようになった時、接客業をするうえで自分の指針となるような教えはないものかと思い6年ぶりにまた高校生の時に読んでいた哲学書や宗教学を読み返すようになりました。そこで驚きの発見がありました。6年前と同じ書物を読んでいても全く別の書物に思えるのです。つまり精神的に発達したことにより書き手が本当に伝えたいことは何かがはっきり見えてくるようにいつの間にかなっていたのです。私は全部それらを読み返しました。その中でも特に仏教の開祖であるブッダさんのお言葉に私は夢中になりました。例えばここにその1例を載せて、私の見解を述べたいと思います。尚、これが今後私が私のこのブログでやっていこうと思っている事です。

 

「執着があるとそれに酔わされる。それ故にものの本当の姿をみることが出来ないのだ。執着を離れた時、その本質を知ることが出来る。だから執着を離れた心にかえってものは生きてくるのだ。」

解説 

 執着。それは誰にでもあるものでしょうし執着を1つも持っていない人間はこの世にいないのではないでしょうか。例えば物や人に対しての執着。自分の固定観念や価値観にへの執着。プライドや地位なんかへの執着。色々な執着を私たち人間は抱え日々生きております。

 例えば自分の価値観への執着。これは非常に厄介です。私の考えは正しくてそれ以外はおかしい。そう思ってしまう方も少なくありません。特にインターネットでは昼夜己の意見が正しいとお互いに主張し論争となっております。己の考えになぜこうも執着してしまうのか。それは考え、価値観というのは自分の生きた過程そのものだからです。人間というものは皆生きてきたそれまでの自分をどこかで誇っており、それが自信やプライドにも繋がります。ですのでその考えを否定されると自分を否定される様に未熟な方は考えてしまうものです。しかしその自分の考え方をふっと手放してみなさい。そうすると他人の考えの理由や思いがなぜそうなるかがよく見えるしそれを通して自分の考えを見直すと、改善点などが第三者視点でよく見えます。執着し、他人と争うことは無意味です。何も生まれないし、心はどんどん貧しく醜くなります。たとえ相手がそのような人間でもあなたは何にもとらわれずにいなさい。そうすることでその相手の執着ですらあなたの心を立派にする糧となるでしょう。

 

 このような言葉が彼の経典にはたくさん書かれております。私はそれを仏教徒としてではなく、あくまで悩める1人の人間として2年かけて何冊も読み漁り、彼の本当の意図は何かを試行錯誤致しました。そして平行して仏教だけに執着しないよう様々な哲学書も読みながら人生とは、人とは、そして私とは何かを追求し続けました。

 

 私は偉いお坊様でもなければ宗教学者でもありません。しかしある時私は本当の意味で自分は救われたと思う精神状態になった事を覚えております。悟りだとかそんな大それたものではありません。しかし私は少なくても悩み、苦しみ、過去に悩まされてばかりであった自分に打ち勝つ事は出来ました。今私は毎日楽しく仕事をしながらこの美しい世界で生きています。あの常に死ぬことしか考えていなかった可哀そうで常に世の中に怯えていた私がこんな気持ちで今を生きれるとは思いもしなかった事です。私はそうなれた過程の中で本当に素晴らしく、あなた方に知ってもらいたい言葉をこのブログに残します。言葉は人間を変える力があります。もし今あなたが悩み、苦しんでいるお方ならもしかしたらお力になれるかもしれません。それを願い、私は今これを書いています。

 

 ここまでご覧下さった方、そして私を成長させるきっかけとなった方々全てに感謝を述べます。その恩返しではありませんが、1人でも読んでくださっている方の力になれますよう日々ブログを書かせて頂こうと思っております。

 

平穏な兎より

私という人間 私の過去2/3 大学生まで

 さて、高校生の頃までの私の過程は前の記事の通りですが、悩み本にばっかり浸ったり、洋楽から生きるすべを学ぼうと必死だったりととても勉強出来る精神状態ではなかったので私は上位私立の学力とは思えないほど偏差値も低く、結局受けた大学は全部落ちるというまさにおバカの極みに達しておりました。結局浪人することになり、また1年勉強をすることになったわけですがハッキリと申し上げる事が出来ます。もし私があの予備校に通うことがなく、あの予備校で仲間に出会えなかったそのような平行世界があるとしたら、その世界線の私は破滅していたでしょう。生きていたかも怪しいものです。運命としか呼べない出会い。それが私を大きく変える事になります。

 

 私の通った予備校は名前を聞けば都内の方なら恐らく7割方存じでいるであろう中規模な予備校でした。その時の私といえばすっかり高校2年生の時までの私ではなくなっていました。勉強は一切やってきませんでしたがあの本の通り自分を偽るわけでもなく道化を演じるわけでもなく根本的な弱い自分そのものを変えてしまう。そのトレーニングだけは怠りませんでした。幸運だったのは80、90年代の洋楽ロックに出会っていたことです。つまり私の目指す他人とは違うけどそれに屈することなくどうどうと自分の道を歩むワルのお手本が一杯あったということです。私はその時ヴィンス・二―ルやアクセル・ローズを手本としていました。特にアクセルは根本的に私と人間的に近いものを感じていたので目指すにはちょうど良かったです。

 

 そして予備校入学当日、すっかり私はワルな風貌でいました。ワルとはいっても悪、狂人になったわけではなくあくまでワルというスタイルを纏ったマイノリティと申し上げるのが適切な表現なのですけれでもそれはロックという音楽史の話になってしまうのでここでは割愛致します。私は最初誰とも仲良くなるつもりはありませんでした。どうせ誰も私を理解できないでしょうしまたくだらないカースト制度を作って幼稚な上下関係ゴッコしかできない奴らだろうと思っていたからです。そんな時今でも覚えています。私が予備校の受付で名簿に名前を記入しようとしていたのですが名簿がそこになかったんですね。おかしいなと思っていると隣に少しチャラそうな人が近づいてきて「ないね。」って微笑んで話しかけてきたんです。私は心の中で「なんだこの子は。一見不良にしか見えない私に話しかけてきたのか。変な奴。」と思いながら「ないね。」と返事しました。このないねの3文字が私の人生を大きく変えるなんて思いもしませんでした。この子とはそれからずっと付き合い続け心からの親友となり他県に引っ越して離れ離れになった今でもたまに会っては飲みます。一見派手好きなおしゃれな遊び好きな子に見えるんですが実はシャイな子で何も考えず電波みたいなところがあるんだけどしっかり芯が座った今まで会ったことがない子でした。警戒していた私もすぐにああ、この子は大丈夫だとすぐ打ち解け友達が出来たのです。ここでこの子以外の出会いを書くととんでもなく長くなってしまいますので簡略的に書かせて頂きます。この子と話していると次々に私たちのもとに仲間が集まってきたのです。正直に言います。全員会ったこともないタイプの人間で俗に言う変人です。ただし共通する事は、全員心から優しいけどどこか他人と違う、普通と違う所に悩んでいて考える。しかしまっすぐに自分という芯があって他人に流れて生きている奴らとは違う。そういう奴らだったのです。なぜこの予備校にここまでのそうはいないタイプの人間が集まっていて、何故こうも上手く皆仲良くなれたかは不明です。運命、としか言いようがないものでした。

 

 もちろん予備校にもグループは出来ます。そして当然の如く私の高校にもいたタイプの所謂一般的で過去にいじめを受けたこともなく楽しく学生時代を過ごしたんだろうなというタイプと私たち変人グループは分かれました。ただし私含め皆かなり存在感が大きく特殊なものを持っていたので他のグループが私たちに何かすることもなかったしとても平穏だった事を覚えています。結局今でもそこで出会った子たちとは繋がっているし私の自慢できる友人たちです。このブログをこの子達が見る事はないだろうけど今ここでもう一度ありがとうと言わせてほしい。今の私は君たちが作ったのです。本当に馬鹿な事をこの子達とやったし私が本当の意味で幸せを知ったのもこの時期でした。

 

 そして楽しい1年はあっという間にすぎて私たちは大学生になりました。遊んでばかりな気がしましたが同じくらい皆で必死に勉強もしあったので皆難関校に受かりました。予備校の先生が「なんでまじめな集団の子達が良い結果がでなくてあんな問題児ばかりの平穏な兎達のグループが良い結果出してるんだ」と言われたのは良い思い出です。ちなみにその予備校は次の年場所を移しました。私たちがあまりに五月蠅かったからきっとクレームが来たんですね。先生方、誠に申し訳ございません。あの時の私たちはようやく本当の意味の仲間に出会えた喜びで舞い上がっていたのです。

 

 大学に通うようになり私は国際交流関係の講義を受ける毎日となりました。私は洋楽から英語が好きになり海外に行きたいという漠然とした気持ちがあったので第一志望のこの大学生活は面白くなるだろうと予想していました。しかし1年の夢のように楽しい期間のせいで私は忘れていたのです。私はマイノリティであり、俗に言う変人であり、理解されない人種ということを。やはりあの予備校の空間が異常すぎたのです。運悪く大学に私の求める空間はありませんでした。授業は面白かったです。しかし同級生、そして校風はとてつもなくつまらなく高校生時代をフラッシュバックしました。私はここですっかり又自分の人生に悩む生活になってしまいました。予備校時代の友人に会うと皆も同じ事を言っていました。つまらないと。しかし私ほど周りの環境は悪くなかったようでそこまで気にしていませんでした。私の周りの環境は私にとっては最悪で高校時代となにも変わりませんでした。

 

 しかしそんな大学でしたが唯一本当によかった事がございます。それは唯一無二の最高の親友と出会えたこと、その友人と留学出来たことです。大学で誇張なく何百人と会話はしましたが大学の友人はこの子1人だけです。しかしこの子は私の移し鏡のような奴で全ての意見が合うのです。どんなに難しい話もお互いできました。はっきり言うことができます。今生きているのは予備校で出会った親友たちと、この大学で出会った私のかけがえのない親友のおかげではありますが、私を成長させ、私を大きくしたのは大学で出会った彼のおかげです。彼がいなければ大学の期間でまた病んでしまっていたでしょう。彼の存在が私の大学時代の全てです。なぜなら私は大学を中退したからです。ただ外国語をファッションと考え碌にその根本的な深さを考えようともせず大学でカースト制度を作って幼稚な毎日を過ごす方々と勉学に励む気にはなりませんでした。もちろん中退するにあたってたくさんの出来事や、悩み、迷いはありましたが今となって言えるのはあそこで中退していなかったら私は終わっていたという事です。

ここまでが私の大学生時代の概要です。深く掘り下げるときりがありませんし、私という人間の輪郭を知るならこの程度の内容でもよいのかなと思います。読んでくださっている皆様にはこんな自分語りをお見せしてしまいお恥ずかしい限りですが、これから私がブログでやりたいこと、伝えたいことは悩み、苦しみ、死にたいと思う過去の私のような方に光を与える事なのです。私のような人間でも心からの安寧を得てまた真に人間を純粋に愛し、社会の為に幸せに働くことが出来るようになったのだからあなただって大丈夫!というそのメッセージを残したいのです。その上で私の過去を知って欲しかったのです。

 

今回はここまで。次回で私の過去は最後となります。

次回 中退後~今に至るまで ~そして私は過去の全てを克服し、安寧を得た~