人生を動かすフレーズ11:善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

名言11

 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

 

 暫く仕事の関係で更新が途絶えてしまっておりました。申し訳ございません。いよいよ2019年も終わりを迎えますがいかがお過ごしでしょうか。元号も変わりながら世の中も良い意味でも悪い意味でも少しずつ変わってきているように思えますね。しかしこのブログと私、そして読者様はこんな激動の世の中でも動揺せず静かに真っ直ぐ生きたいものです。

 

 さて、今回は初めてブッダさんではなく他の方のフレーズを取り上げます。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」これは浄土真宗の宗祖とされる親鸞さんのお言葉です。このフレーズを解説する前に、親鸞さんについて簡単にお話させて下さい。

 

 仏教学的な見解や歴史学的な視点ではお話致しません。それは他の方が既に数多の資料として残しているのでそちらを参考にして下さい。私は現代人から親鸞さんを見てどういうお方かを書かせて頂きます。一言で申し上げるなら、親鸞さんは最も我々に近い立場の僧侶だったと思います。我々と同じように迷い、悩みながらも前に進み続けて来たお方です。親鸞さんの生涯を見ると分かるのですが、人1倍苦労されています。仏教とは自分とは、悟りとは、人間とは、仏様とは何かという疑問を生涯を懸けて追及されました。恐れながら申し上げますと、平凡な僧侶の方はどうしても仏教という枠に囚われて執着してしまいます。鎌倉時代では尚その傾向が強かったに違いありません。しかしその中でも例え周りから何を言われようと「念仏を唱えれば誰でも等しく仏様は私達を救って下さいますよ。」という教えを説かれました。それまで仏教は高い教養が求められ高い位の者が学ぶもので、庶民では縁遠い存在であったのですが親鸞さんや彼の師匠である法然さんがそれを誰にでも身近に感じられる存在にしてくれたのです。その結果国から罰を与えられるなどの不遇も多々ありましたがそれは是非彼らの生涯を綴った本やアニメをご覧ください。私は親鸞さんについて書かれた本を一通り読んだ後、アニメ「親鸞さま ねがい、そしてひかり」を見て思わず涙が出てしまいました。このアニメは忠実に親鸞さんの生涯を再現しておりますのでお手隙の際に是非ご覧下さればと思います。

 

 簡単に親鸞さんについてお話させて頂いた所で本題である「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」の解説を試みたいと思います。まず、現代語訳をすると「善人でさえ幸せになれるのだから、どうして悪人が幸せになれない事があろうか。」となります。世間では「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。」という訳が多いですが誤解を生みかねない訳なので私は好みません。そう、何も背景を知らずただこの言葉を聞くと悪い事をした方が幸せになるのかという誤解が生まれます。さて、ではこの言葉の真意は何か。そして現代人である私達に何を教えてくれているか。それを私個人の解釈でご説明させて下さい。

 

 まず善人とは何でしょうか。あなたはご自分が善人であると思われますか。それとも悪人だと認識していらっしゃるでしょうか。この質問に対してはっきり自分は悪人だと答えられる方はいらっしゃっても善人だとお答え出来る方はなかなかいらっしゃらないのではないでしょうか。そして恐れながら申し上げてしまいますとここで私は善人だと断言してしてしまう方は自惚れが過ぎるのです。善人だと思っている人間は即ち自分に自信がある者です。「私は災害の募金活動に定期的に協力している。だから私はすばらしい。」や「私は常に他人の為に頑張っている。そんな私が善ではなくて何だというのだ。」といった具合ですね。しかしこうなってしまうと自分という人間を過信してしまうので、他人に救いを求めたり、助けを請う事をしなくなっていきます。もっと言いますと、善人だと断言してしまうのは成長が止まる事でもあると私は考えます。一挙手一投足を見れば、全て正しい行いが出来ている者などいないのです。必ず人間である以上至らぬ点が見つかります。善人と信じて疑わない方よりも反面自分が悪人だと認識できている者の方が自分をよく観察出来ている様に思えます。当然、悪人とは犯罪者やならず者を指している訳では御座いません。悪人とは己を悪人だと考える人間、己は悪人だから善人になろうと励む人間、己の愚かさを心から自覚し善人へと変わろうとしても上手くいかずその己に失望する人間等が挙げられます。どの点が悪かを分かっているから、改善の余地があるという者です。親鸞さんは、悪人は自分の努力や意思で己を向上させようとしても上手くいかないと知っているから心から仏様に救いを求める事が出来る。他力本願という事です。そして仏様はそのように苦しんでいる人間を見過ごす事はないと仰いました。それが「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」です。善人は己に自惚れており、自力を過信しているからこそ仏様に心から助けを求めない。しかし悪人は己の愚かさを身を持って実感しているからこそ自力を捨て心から仏様に頼る事が出来るから、悪人は尚救われるのだという事ですね。これが今回のフレーズの全貌です。

 

 最後に今回このフレーズから私達が学ぶべき事を私個人の意見で申し上げたいと思います。人間というのはやはり完璧には程遠い存在です。しかし私達はどこかいつも完璧を目指してしまいます。その結果イメージの自分と実際の自分のギャップに失望し、己を苦しめてしまうという事が多いのではないでしょうか。「欠点がある自分なんていやだ」「なんで私こんな事も出来ないのだろう」といった具合ですね。恐らく9割の方はどこかでこのように思われた経験があるでしょう。しかし何事もそうですが思いつめて、状況が改善される事はほとんどないのです。むしろ思いつめると悪い方向にばかり行ってしまう。そういうものです。自分に悪い部分がある事は決して悪い事ではないのです。むしろそれが普通でしょう。それとどうやって付き合っていくか。時には仏教の教えの様に他力本願で自分の悪い所を他人に任せて治してもらうもよし、時に任せてただただ経験を積んでいくのもよし。そうやって身を任せているうちに気が付いたらその悪い部分が改善している。新人も3年経てば玄人になっているように。そのように考えれば気が楽に生きれませんか。何事もローマは一日にして成らず…という事ですね。

 

平穏な兎より