コロナウイルスにおける外出制限について

お久ぶりです。周りのゴタゴタでなかなかブログ更新ができずにいました。

 

 さて、前回の記事から色々な出来事が私の周りにもありましたが、一番私含め我々人類に影響を及ぼした出来事はやはりコロナウイルスでしょう。国から緊急事態宣言が出され外出自粛を促されましたが皆さまはどのようにお過ごしでしょうか。「基本は家にいて生活必需品の買い出し以外は絶対外に出ないよ!」という方もいれば「外に出たくはないけど仕事の為に、生きる為に出かけなくてはならないよ。」或いは「マスクしてるし大丈夫だと思い外出している。人間引きこもりっぱなしじゃおかしくなってしまうもの。」という方もいらっしゃるかもしれません。

 

 今回いつものブログスタイルを捨てて私がこのブログでお伝えしたい事はこの外出自粛を本当の意味です。今さら私なんかがお伝えしても何の意味もないかもしれませんが、それでも書かずにはいられませんでした。もし万が一これを読んで下さった方がいて1人でも心から理解してくれたらと願っております。

 

 この外出自粛。ただ漠然と自粛しなきゃいけないんだと思うだけでは成し遂げられません。なぜなら人間は基本的に社会に属し安心を得る生き物ですので家の中で過ごすだけでは刺激も足りなく、ストレスになります。そのストレスは解消のしようもないので余程の意思がなければ「耐えられない!国はこう言ってるが私は外出する!マスクもしてるし大丈夫でしょ!」となりかねません。2週間という期間が設けられていれば話は別ですが恐らくこの騒ぎはもっともっと長期戦になるでしょう。その時、果たしてあなたは自粛生活を続けられるでしょうか。何かを成し遂げる為には信念が大事です。どんな苦境にいても信念があれば、何の為という目的があればやり遂げる事ができるでしょうし、それがなければ欲や、ストレスに負けて心に流されるままに間違った方向に進んでしまう。そういうものです。その信念、何の為をこれから私が書かせて頂きます。

 

 まず私がこのブログを書こうと思ったきっかけのお話を致しますと、私は地方で宿泊業で努めています。今回の騒動で被害額はとんでもないですが、それ以上にこんな状況でも地方に遊びに来る都会人が多すぎるという事実の方が私の中で問題なのです。今ニュースやSNSでも問題として取り上げられていますが、現場にいる人間としてその危機を心から感じております。地方なら安全だろうとお考えでしょうが、そのお考えが何をもたらしかねないか少しここで考えてみてください。それでは私のコロナウイルスにおける外出自粛についてお伝えしたい事をここから記載させて下さい。

 

 まず都会から地方に逃げてこられる方へ。地方は当然ご高齢の方が多いです。70、80代のお方の比率が多い地方でコロナウイルスが流行ればどうなってしまうでしょう。そして万が一症状が出た場合都会と違い地方は救急車の到着が非常に遅いです。そして受け入れ病院先もなかなか見つからないという事も多々あるのです。当然都会に比べ生存率も下がります。若い方ならまだ大丈夫かもしれませんが、ご高齢の方にとってのコロナウイルスの呼吸困難症状は一分一秒を争う問題と成り得ます。

 

 そしてこれはあなたが行動する上での心がけですが「自分は大丈夫だから。」や「ここは安全だから。」といった自分本位のお考え捨てなくてはなりません。「もし自分が感染していてそれを安全であった地域に運んでしまったら。」という他人への思いを常に持って行動するのです。はっきりここで申し上げます。あなたが無自覚な感染者であったとします。そして外出自粛を破り地方に遊びに来てしまいその地方で感染が広がってしまいました。これはですね、無自覚な殺人であると私は主張せざるを得ないです。あなたは生き残るかも知れませんがあなたが置いて来たウイルスで亡くなる地方民がいる可能性があるのです。もしそんな可能性はほとんどないでしょとお考えならば危険です。あなたが外出自粛していればその地方民は笑顔で家族と生活出来ていたのに全てを壊してしまう可能性があるのです。実際にそういう事は既に起こってしまっているのです。私の住む地域は本当に自然しかないのどかな田舎でしたがつい最近東京からの観光者によって発症者が出てしまいました。いつも笑顔でのんびり過ごしていたこの地方の住民ですがこれにより状況が変わってきてしまいました。持ちこまれたウイルスで亡くなった方のご家族は一体誰にその気持ちをぶつければ良いのでしょう。ナンセンスですが持ち込んだあなたにその怒りはぶつける事になるでしょう。「いや、でも仕方ないじゃん。」では済まないのです。防げた事を防がなかった。その事実が永遠にあなたに付きまとってしまう恐れがあるのです。

 

 色々な事情があり外に出なくてはならない方もいらっしゃるでしょう。しかし今回私が書いた事はどうか心に刻んで頂きたいです。仕事に関連付けて反論されてしまえば私からは何も申し上げる事が出来ませんが、全ては命あってのものだと私は考えておりますし、そうであってほしいと願うばかりです。外出自粛とは自分を守り、他者を救う行為です。今回私はウイルス持ち込みにって持ち込まれた地方民が死んでしまう事を「無自覚な殺人」と書かせて頂きましたが、ここまでの表現でないと私達人間はその重要性を心から理解する事は難しいと思った上でこの表現を選びました。

 

 本当に大変な時期ですが、この苦境かにおいて最も大事な事は己の人間性です。常に己の心を見て己を分析し、考える。それが大切な時期です。私のような無名でどこの馬の骨かも分からないような人間が与えられる影響など皆無でしょうが、ここに残させて下さい。

 

 最後に、私達皆でこの苦境を乗り越えていきましょう。あなたなら大丈夫。素晴らしい人間ですから。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ11:善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

名言11

 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。

 

 暫く仕事の関係で更新が途絶えてしまっておりました。申し訳ございません。いよいよ2019年も終わりを迎えますがいかがお過ごしでしょうか。元号も変わりながら世の中も良い意味でも悪い意味でも少しずつ変わってきているように思えますね。しかしこのブログと私、そして読者様はこんな激動の世の中でも動揺せず静かに真っ直ぐ生きたいものです。

 

 さて、今回は初めてブッダさんではなく他の方のフレーズを取り上げます。「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」これは浄土真宗の宗祖とされる親鸞さんのお言葉です。このフレーズを解説する前に、親鸞さんについて簡単にお話させて下さい。

 

 仏教学的な見解や歴史学的な視点ではお話致しません。それは他の方が既に数多の資料として残しているのでそちらを参考にして下さい。私は現代人から親鸞さんを見てどういうお方かを書かせて頂きます。一言で申し上げるなら、親鸞さんは最も我々に近い立場の僧侶だったと思います。我々と同じように迷い、悩みながらも前に進み続けて来たお方です。親鸞さんの生涯を見ると分かるのですが、人1倍苦労されています。仏教とは自分とは、悟りとは、人間とは、仏様とは何かという疑問を生涯を懸けて追及されました。恐れながら申し上げますと、平凡な僧侶の方はどうしても仏教という枠に囚われて執着してしまいます。鎌倉時代では尚その傾向が強かったに違いありません。しかしその中でも例え周りから何を言われようと「念仏を唱えれば誰でも等しく仏様は私達を救って下さいますよ。」という教えを説かれました。それまで仏教は高い教養が求められ高い位の者が学ぶもので、庶民では縁遠い存在であったのですが親鸞さんや彼の師匠である法然さんがそれを誰にでも身近に感じられる存在にしてくれたのです。その結果国から罰を与えられるなどの不遇も多々ありましたがそれは是非彼らの生涯を綴った本やアニメをご覧ください。私は親鸞さんについて書かれた本を一通り読んだ後、アニメ「親鸞さま ねがい、そしてひかり」を見て思わず涙が出てしまいました。このアニメは忠実に親鸞さんの生涯を再現しておりますのでお手隙の際に是非ご覧下さればと思います。

 

 簡単に親鸞さんについてお話させて頂いた所で本題である「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」の解説を試みたいと思います。まず、現代語訳をすると「善人でさえ幸せになれるのだから、どうして悪人が幸せになれない事があろうか。」となります。世間では「善人でさえ幸せになれるのだから、悪人はなおさら幸せになれる。」という訳が多いですが誤解を生みかねない訳なので私は好みません。そう、何も背景を知らずただこの言葉を聞くと悪い事をした方が幸せになるのかという誤解が生まれます。さて、ではこの言葉の真意は何か。そして現代人である私達に何を教えてくれているか。それを私個人の解釈でご説明させて下さい。

 

 まず善人とは何でしょうか。あなたはご自分が善人であると思われますか。それとも悪人だと認識していらっしゃるでしょうか。この質問に対してはっきり自分は悪人だと答えられる方はいらっしゃっても善人だとお答え出来る方はなかなかいらっしゃらないのではないでしょうか。そして恐れながら申し上げてしまいますとここで私は善人だと断言してしてしまう方は自惚れが過ぎるのです。善人だと思っている人間は即ち自分に自信がある者です。「私は災害の募金活動に定期的に協力している。だから私はすばらしい。」や「私は常に他人の為に頑張っている。そんな私が善ではなくて何だというのだ。」といった具合ですね。しかしこうなってしまうと自分という人間を過信してしまうので、他人に救いを求めたり、助けを請う事をしなくなっていきます。もっと言いますと、善人だと断言してしまうのは成長が止まる事でもあると私は考えます。一挙手一投足を見れば、全て正しい行いが出来ている者などいないのです。必ず人間である以上至らぬ点が見つかります。善人と信じて疑わない方よりも反面自分が悪人だと認識できている者の方が自分をよく観察出来ている様に思えます。当然、悪人とは犯罪者やならず者を指している訳では御座いません。悪人とは己を悪人だと考える人間、己は悪人だから善人になろうと励む人間、己の愚かさを心から自覚し善人へと変わろうとしても上手くいかずその己に失望する人間等が挙げられます。どの点が悪かを分かっているから、改善の余地があるという者です。親鸞さんは、悪人は自分の努力や意思で己を向上させようとしても上手くいかないと知っているから心から仏様に救いを求める事が出来る。他力本願という事です。そして仏様はそのように苦しんでいる人間を見過ごす事はないと仰いました。それが「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。」です。善人は己に自惚れており、自力を過信しているからこそ仏様に心から助けを求めない。しかし悪人は己の愚かさを身を持って実感しているからこそ自力を捨て心から仏様に頼る事が出来るから、悪人は尚救われるのだという事ですね。これが今回のフレーズの全貌です。

 

 最後に今回このフレーズから私達が学ぶべき事を私個人の意見で申し上げたいと思います。人間というのはやはり完璧には程遠い存在です。しかし私達はどこかいつも完璧を目指してしまいます。その結果イメージの自分と実際の自分のギャップに失望し、己を苦しめてしまうという事が多いのではないでしょうか。「欠点がある自分なんていやだ」「なんで私こんな事も出来ないのだろう」といった具合ですね。恐らく9割の方はどこかでこのように思われた経験があるでしょう。しかし何事もそうですが思いつめて、状況が改善される事はほとんどないのです。むしろ思いつめると悪い方向にばかり行ってしまう。そういうものです。自分に悪い部分がある事は決して悪い事ではないのです。むしろそれが普通でしょう。それとどうやって付き合っていくか。時には仏教の教えの様に他力本願で自分の悪い所を他人に任せて治してもらうもよし、時に任せてただただ経験を積んでいくのもよし。そうやって身を任せているうちに気が付いたらその悪い部分が改善している。新人も3年経てば玄人になっているように。そのように考えれば気が楽に生きれませんか。何事もローマは一日にして成らず…という事ですね。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ10:水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。

名言10

 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。

 

 今回なのですがなんだかんだで私の人生を動かすフレーズシリーズも10回目を迎えました。そこで読者様には申し訳ないのですが今回はこの私に対してこのブッダさんのフレーズを言い聞かせたいと思います。このブログを書いている私に対しての説教はお見苦しいかと思われますがご承知下されば幸いです。

 

 平穏な兎よ。お前は仕事がある時も時間を作ってこのブログを書いているな。だか時々お前はこう考えてしまう事がある。「果たしてこのブログに意味はあるのか。私の努力は実は無意味なのでは。」「どんなに頑張って書いても誰も見てくれないんじゃないか。」と。まだまだ未熟だなお前は。お前は薄々気がついているはずだ。このブログは他人の為であると同時に自分の為であると。時折あの辛い頃の努力をお前は忘れそうなるがそうならない為に書いているというのが大きいだろう。常に励む事を忘れない事、それが今のお前にとって大事なのだ。今は誰もこんなちっぽけなブログ見られないかもしれない。だけどそれでいいじゃないか。このブログを書いている時間はそういう意味で決して無駄ではないのだ。

 

 水が一滴ずつでも滴り落ちるならば、水瓶でも満たすことが出来る。お前の好きなフレーズの1つだな。お前も知っての通りこれはどんなに小さな事でもそれを毎日毎日積み重ねれば必ず大きなものとなるという意味だ。このブログの1記事はその水滴だ。コツコツその水滴を水瓶に垂らし続ける事がお前のやらなくてはならない事だ。それを辞める事、それこそが1番あってはならない事なのだ。誰も読まないかもしれないし誰の役にも立たないかもしれない。だが結果はどうでも良い。その過程を、今を大事にしなさい。今こうして自分にむけて問いただすこの瞬間。誰かに伝えようと再びブッダさんのフレーズに触れてもう一度考えるその瞬間。それを大切に思って毎日水滴を垂らす事が、未来のお前に繋がるのだ。そしてこのブログにおいてだけでなく、お前の人生もそうやって怠る事無く進み続けるのだ。それを忘れるな。

 

平穏な兎へ

人生を動かすフレーズ9:思慮深き人よ、奮い立ち、努めはげみ自制及び克己により、どんな激流も押し流す事が出来ない島を作れ。

名言9

 思慮深き人よ、奮い立ち、努めはげみ自制及び克己により、どんな激流も押し流す事が出来ない島を作れ。

 

 今回もブッダさんのお言葉です。このフレーズは言葉通りに捉えると「どういう意味だろう。」と悩む方も多いと思いますので本日は先にこのフレーズの読解をしていきたいと思います。

 

 まず、どんな激流も押し流す事が出来ない島とは何かを私なりの解釈で説明したいと思います。島とは簡潔に申し上げるなら、あなたの心です。そして激流があなたの周りの出来事であったり、この世の時流等の外的要素です。あなたは生きる中で様々な悩みを抱えます。学校、会社内の人間関係や社会に対する不満など例を挙げればきりがないでしょう。その自分を苦しめる要因は0にすることが出来ないもので、毎日、突発的に出てきてしまうものです。この現象全般をブッダさんは荒れ狂う川の流れに例えて激流と表現しています。では何故ブッダさんは私たちの心を島と例えられたのか。小さな島で何の対策も講じられていなければ激流に立ち向かえずあっという間に流されてしまう事でしょう。しかし大きな島で、激流に対する対抗措置が整っている島であれば激流に動じる事は御座いません。そしてこの島の広さとはあなたの心の広さであり、激流の対抗措置はあなたの生活する上での心構えです。もしあなたが向上心がなく怠けて過ごしているならあなたの島(心)はずっと小さいままで日頃の心がけもなく学ぶ意欲もないなら激流に対する対抗措置(心構え)もおぼつかなく、さながら更地の様になってしまいます。その状態ではこの厳しい激流(生きるのが大変な世の中)に耐える事はできずきっと流されてしまいます。ではどのように島を大きくしどのように対抗措置を講じるのか。その答えが前文の「奮い立ち、努めはげみ自制及び克己により…」なのです。自制と克己は似たような意味でつまり自分に打ち勝つ事。自堕落な己や欲深い己を奮い立って押さえつけて人間として立派になっていく事これこそが激流に耐えうる島を作る手段なのだとブッダさんは仰っている訳ですね。

 

 さて、読解はここまでにして今回はこれを元にある疑問の答えを書いていきたいと思います。それは、「生きるのに疲れてどうしたら楽になれるのか探る為にこのブログにたどり着いたのに、ここに書いてある事はどれも大変そうな事ばかり。自分に打ち勝つ?常に努め励む?ただでさえ仕事で疲れているのにその上さらに疲れそうな事ばかりじゃないか!」というお気持ちです。恐らく昔の私がこのブログを読んだらそう思うでしょう。そして読者様の中にもいらっしゃるかと思われます。そのお気持ち、とても分かります。しかし今回の「思慮深き人よ、奮い立ち、努めはげみ自制及び克己により、どんな激流も押し流す事が出来ない島を作れ。」というフレーズがこの答えとなります。では解説させて頂きましょう。

 

 先に無礼を承知で申し上げますが、あなたは今小さな島だと思い込んで下さい。その島は更地で何一つ激流に対する対抗措置もありません。それが今のあなただと思いこむのです。そして人生とは常に上手くいくわけではなく、突発的にたびたび思いもしないような苦痛があなたを襲います。その苦痛の瞬間を豪雨による激流だとお考え下さい。今のあなたは豪雨の度に流され、流される度に1から小さな島を又作り、それで満足してしまいまた豪雨が来て流され又小さな島を…の繰り返しのような状態です。それでは豪雨(日常で起こる苦痛)の度に疲れ果ててしまいます。そこで島を大きくて、対抗措置も講じようとある日あなたは決意します。しかしそれは並大抵の道ではありません。あなたは毎日島を大きく為に埋め立てによる人工島をせっせと作りあげます。どう作り挙げるか初めは無知なのでその為の心構えが書いてある教本も読み始めます。毎日せっせと作り上げながら教本で休みなく勉強している生活。それはどんなに辛い事でしょう。ある時は豪雨の中で流されそうになっても島の為にもがきながらあなたは働きます。そうして長い年月が経ち、あなたはとうとう大きくそして立派な激流対策もされた島を完成させます。きっとあなたはその達成感に涙を流すでよう。「私こんなにがんばったんだ。すごく辛い毎日だった。でも私はやり遂げたんだ。」と。そしてそれからはどんな豪雨が降りどんな激流がきてももはやあなたの敵ではなくなりました。激流の時も心穏やかに平和に悠々と過ごせるようになったのです。もうあなたの島を脅かす存在はなくなりました…という様なおとぎ話ですがこれが答えです。心穏やかな毎日を手に入れる為にはその人間としての器(大きな島)作りを始めなくてはなりません。それは容易ではありません。常に学び励むのですから初めは苦痛で泣きながらの作業になります。しかしあなたの人間としての器(島)がある程度大きくなり、激流に動じなくなってからはあなたは誰よりも心穏やかで平穏な人生を歩んでいるでしょう。どんな不幸や失敗(激流)にも動じないあなたがそこにいるはずです。それこそが今、あなたが励み努めなくてはならない理由なのです。

 

 最後に自分語りで恐縮ですがまだまだとはいえ私の島もだいぶ大きくなってきたと自負しております。小さな島の時は毎日が辛く、泣いていた私も毎日コツコツと島を大きくしていくしていく事で激流に動じなくなりました。その過程は大変です。しかしある程度大きくしてしまえば、あなたはもう大丈夫。どんな事にも穏やかに対処でき常に心が平和でいられる様になっているでしょう。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ8:最大の名誉は決して倒れない事ではないく、倒れるたびに起き上がる事である。

名言8

 最大の名誉は決して倒れない事ではなく、倒れるたびに起き上がる事である。

 

 仕事をしていると”失敗”。これが何よりも恐ろしくなるものです。今回は現代のSNSを絡めてこのブッダさんのお言葉を考えていきたいと思います。

 

 失敗して怒られてしまう。どなたにでも経験があることと思われます。失敗にも自分の未熟から起きる過ちや、疲労が原因で不注意になってしまった時のミスなどたくさんの種類がございます。そして失敗するとやはりどこがめげてしまうものです。今の社会にありがちですが、失敗=ダメな事、怒られる事、恥ずべき事、と捉えている方がとても多いです。ですが本来失敗とは自分を鍛え、成長させる財産なのです。しかし現代のSNS、メディアの発達のせいで失敗=制裁の風潮がございます。

 

 例をあげましょう。最近TwitterTikTokなどというSNSでおバカな行為をしてしまい全国的に晒されるという事件が多いですよね。当然これらは悪い行動をとった報いではあります。しかしこの晒すという行為。これはハッキリ申し上げて残酷極まりない行為だと思うのです。大昔からおバカはたくさんいました。しかし周りに注意され、少ずつ大人になるにつれおバカ達も立派になっていったのです。これを読んでくださっていますあなたやあなたのご両親の世代は悪い事をしても晒される時代ではなかったでしょう。高校生くらいまではまだまだお子様です。社会に出て鍛えられ、思考し、物事を正確に判断できるようになって初めて大人です。問題はあなたやあなたの周りで悪い事を一回もした事がないという人間はいらっしゃるでしょうか。私は一回も悪い事した事無いよ!と断言出来る方がいらっしゃいましたらそのお方は聖人です。私が申し上げる事は何もないですし、不敬をお許しください。しかし私はいないと断言させて頂きます。子供の頃まだ善悪の区別もつかない頃を含めれば、悪さをした事がない方はいないでしょう。もしあなたが今、この時に学生であったとしてあの時のあの行動が動画で残っていてSNSで晒されたら炎上するかもしれません。私たちは多かれ少なかれそのような失敗をし、反省し、考え、成長してきたのです。晒されサンドバッグの如く叩かれている子供たちの動画をみて思います。拡散され、それをおもちゃのように皆で弄ばれていますがそこまでの罰を受けなくてはなりませんか。インターネットに載せる方が悪いんだという意見もありますし、そうかもしれません。しかし皆さま大人げない。子供の失敗を餌にストレスを発散してしまっているという恥ずかしい事を平気で出来てしまう大人が多すぎるのです。あなた方もたくさん失敗し、世間様に迷惑をかけてきました。彼らと何が違うのでしょうか。なんならあなたの親の世代の方々なんかすごいと思いますよ。是非一度ご両親に訪ねてみなさい。

 

 私たちは失敗→お説教を受ける→反省→思考→成長という過程で育っていきます。しかしSNSで晒された子は失敗→袋叩き→恐怖→絶望という過程になってしまっています。デジタルタトゥーと呼ばれるようにネットに出してしまったものの抹消は不可能です。その過去の失敗が永遠にしがらみとなり、成長どころではなく恐怖でおびえ続ける事になるのです。これはどう考えてもおかしい話です。Twitterで遊び半分で晒して優越感に浸っている方、あなたのその行動は人間1人殺す事と同じと思いなさい。叱って成長させてあげるわけでもなくただ晒して皆で袋叩きにして遊ぶ…狂人ですよ。Twitter含めSNSをしている方は皆肝に銘じなさい。

 

 話を最後に戻します。失敗はむしろ本来どんどんしなくてはなりません。それに怯えるのではなく失敗し、なぜ駄目だったかを学び、そこから己の未熟な部分を探って成長させる。それこそが1番人として成長させる原動力となります。失敗しちゃいけないんだ!と完璧な人間を目指してはなりません。人間は完璧にはなれないのです。それよりも失敗し続け大きくなりなさい。そうすればいつか完璧に近い人間にはなっている事でしょう。それが「最大の名誉は決して倒れない事ではないく、倒れるたびに起き上がる事である。」という言葉の持つ意味かと思います。この失敗に厳しくなった世界においても動ずることなく行動していきたいものです。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ7:過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きよ。

名言7

 過去は追ってはならない、未来は待ってはならない。ただ現在の一瞬だけを、強く生きよ。

 

 本日のブッダさんの名言です。私が社会人になり本当に辛かった時、この言葉をいつも唱えておりました。この言葉はまさに毎日を頑張って生きている社会人を励ます言葉になると私は心から思っています。それでは参りましょう。

 

 社会人になると急にこう思ってしまう時がありませんか。「過去の私は夢に溢れていた。しかし現在の私ときたらこんな仕事しか出来ない。こんなはずではなかった。」とか「今はこんな生活だけどこの先私はどうなるのだろう。もしかして一生このままなのかな。」等という思いです。過去と現在の自分を比較して落ち込んだり、未来を思い漠然と不安になる。これは恐らくどなたでも思い浮かべてしまう事だと思います。そしてそれを思うととたんに今の仕事や自分に不満を抱き、それがストレスとなってあなたを襲うのです。

 

 過去を追い、未来を待つ。こうしているうちに時間ばかりが経ち、気がつけばもう人生折り返し地点なんていう例も多々聞きます。そう、過去を振り返っても未来を夢想しても現在は変わらないのです。ただし、今、あなたがいるその現在だけはあなた次第でいくらでも変える事が出来ます。だからこそ何も考えず今を手を抜かず目の前の事に誠心誠意立ち向かって生きていくのです。そして今を本気で生きる事こそ未来となります。「成功するかわからない…」とか「頑張っても報われないかもしれない…」という不安感から今を本気で生きれない方もたくさんいらっしゃるかと思われます。ですが良いじゃないですか。例え成功しなくても、報われなくてもその本気で生きてきた過程はあなたにずっと残り宝物になります。もっというとあなたが望むほどのものではないかもしれませんが、今を本気で生きれば100%成功し、報われます。だって頑張っているあなたを周りは見ていないようでどこかで観ていますし、本気で生きる過程であなたの人間としての器はどんどん鍛えられ立派になっていることでしょうから。だから何も考えず今を大いに楽しんで本気で生きるのです。すると自分でも気がつかないうちに何もかもが変化しているでしょう。

 

 最後に勘違いなさってしまう方もいるかもしれませんがこれは「今を頑張らなくてはならない。だから嫌で苦しくてもこの会社で働き続けなければならない。いつか報われるのだから。」という意味ではありません。仕事とは相性があり、環境も自分に合っているか否かが重要です。そして合ってない、環境が嫌だと思ったら我慢せず抜けてしまうのが良いでしょう。ただし、少しも我慢せず辞めるのは甘えです。楽な仕事はこの世にないですから。本当にもう無理だと心から思ったら決断の時です。今を本気で生きる。それは今出来る自分の選択の中で最も自分にとって最良である道を本気で考え抜くという事でもあります。常に今を生き、今を考え、自分を導く。その先が、あなたの未来です。

 

平穏な兎より

人生を動かすフレーズ6:他人の過失を見る必要はない。他人のした事としなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにせよ。

名言6

 他人の過失を見る必要はない。他人のした事としなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにせよ。

 

 またまたブッダさんの名言です。私が彼の名言を多々ご紹介する理由はやはり私自身1番この方から学び得たからですがそれだけでなく、彼の教えは正に今時を越えて我々現代人に必要な薬となる事を確信しているからでもあります。私は仏教徒でもなければ宗教家でもございません。ですので1人の現代社会人という目線で彼の言葉を捉え、考えた私の解釈を同じく今苦しんで生きているあなた方に読んで頂きたい次第です。実は本当に仏門の世界で生きようか思っていた時期もありますがそれは別の機会にお話させてくださればと思います。それでは参りましょう。

 

 これは前の記事にも書いた事ですが、他人の過ちは見やすく自分の過ちは気がつきにくいというのが人間です。そして他人の過ちをみて優越感に浸ったり、馬鹿にしたりするのも人間というものです。恐らく思い当たる節がある方も結構いらっしゃるかと思われます。例えば最近芸能人やらYoutuberの方がやらかしてニュースに取り上げられる場面が多々見られます。そのニュースに対して「最低な奴だ。二度と戻ってくるな。」とか「こいつ本当に情けないね。呆れたわ。」やら「馬鹿でしょこいつ。見損ないました。」だの特にTwitterなんかで叩きまくっている光景が目立ちます。いつもそのような光景を見て思うのです。それを言う事であなたにとって何か良い事でもあるのかなと。私はSNSでのこの現象をインターネットサンドバッグと勝手に名付けて呼んでいます。日頃のストレスを日常で発散できないからお手軽なインターネットで標的を作って叩いて発散してやる!というある種の脳内麻薬のようなものです。叩いている人はもう叩く事がクセになってしまっているんですね。それによってストレスを発散しなんとかこの世を生きている状態でしょうか。ですがその方の人間としての器はもうボロボロになってしまっている事でしょう。前回までのブログの話になってしまいますが、許すこともせず、他人に指摘する一方で自分を見つめ返すこともせず、なによりも自分という人間を成長させようという気持ちがないようでは永遠に貧しい心で常にマイナス思考で暗い世界でただ一人歩むようになってしまいます。たかがインターネットで叩くくらいで何を大げさな…と思っている方がいらっしゃいましたら気をつけて下さい。大きな水がめに一滴ずつポタリ、ポタリと水滴が落ちればいつかは水で満たされる様に悪い行いも少ずつ重ねればいつかは満たされあなたという人間に降りかかってきてしまうのだから。

 

 他人を見て自分と比べたり、悪く言ったりする時間。それは何もあなたにとってプラスになる事はありません。そうではなく常に視線は自己に向けるべきなのです。「私はこれまでの人生であれもこれもやってこなかった。だから今こそ動いて…」又は「私は人生常に前に進み続けあれも、これも成し遂げた。次は…」のように自分がやってきた事、やらなかった事だけを意識し未来に繋げていくこと。これこそがあなたを大きくそして立派にしていく心構えなのです。他人が何をしでかしたり、何を成し遂げるかはあなたには全く関係ありません。問題は今あなたは何をしているか、これから何をするのかなのです。そこを常に意識し生きていくことこそ「他人の過失を見る必要はない。他人のした事としなかった事を見るのではなく、自分がした事としなかった事だけを見るようにせよ。」というお言葉の真意なのではないかと私は考えこれからも己を見つみ精進していきたいと思っております。

 

平穏な兎より