私という人間 私の過去3/3 中退後~現在に至るまで

 さて、中退後はどうするか全く決められないまま日々悩むばかりでした。実は大学1年生の時に初めてバイトを経験したのですが、その時運悪く店長が自分と全く合わない人間で私にとても理不尽な態度や言動をしていた事がトラウマで自分はきっと社会に出る事は出来ない、私のようなマイノリティはどこに行っても上手くいかないだろうとその時からネガティブ思考になってしまっておりました。仕事はしなくてはならない。しかし仕事に行きたくない。自殺をする勇気もないから生きなくてはならないし、その為にはお金が必要です。私はこのまま引き込もるわけにはいけない、とにかく嫌とか言っている場合ではないから私でも出来そうな仕事を探そうと必死になりました。そこで選んだのがごみ収集作業のアルバイトでした。私は元々プライドが高い人間でしたので大学生時代でしたら決して選ぶ事のないような仕事だったと思います。しかし最早私にプライド等一欠けらもございませんでした。低く、くだらないプライドは人生において何もプラスにはならない。だから私はこの世で1番無知で愚かな人間なんだと思うようにしたのです。ごみ収集作業のバイトの概要は収集車に乗り、集積所のごみを次々に後ろに積み込みそれを午前、午後ひたすら繰り返すというものでした。結論から申し上げます。今の私の社会人としての基礎は全てここで学びました。誇張表現抜きでどうしようもない自分を鍛えるにはこれ以上にない最高の職場でした。もしこれを読んでいる方で引きこもってしまっている方がいらっしゃいましたら是非思いきってまずごみ収集の仕事に応募してみてください。騙されたと思って働いてみてください。全てがひっくり返るでしょう。止まった人生を動かす起爆剤となるでしょう。

 

 業務内容を詳しく書くことは致しませんがざっと概要を書かせて頂きます。基本的には前述したとおりの作業ですので難しい事は何もございません。しかし日頃運動をしていない方ですと最初は結構厳しいと思います。実際私はもう4年も運動の週間がなかったので出勤初日は疲労困憊でした。それでも私は「もしここで投げ出したら一生そうやって生きていくんだろう。ここで辞めたら死ぬしかないんだ。」という思いで必死に親方についていったものです。

 

 初めて三カ月もたつと体も慣れてきて大変とは言え何不自由なく業務が出来るようになりました。そしてその頃になって親方のうちのある1人の方が仰って下さった言葉があります。「平穏な兎さんは本当によく仕事をしてくれるね。今の若いアルバイトは意識が足りないって言うのかな。正直全然ダメなんだけど君は違う。たったの三カ月でこんなに出来るし何より本当に助かっているよ。ありがとう。」そう仰って下さった事を今でも覚えていますし、この言葉が私を社会人にしてくれたのです。こんな私が他人から感謝されるなんて、とこの日は泣きました。私もこの世界で生きていいのかもしれない。社会の1部になってもいいのかもしれない。そう思えたからでした。

 

 その次の日から私はもっともっと仕事をがんばるようになりました。何をすればもっと親方たちが喜んでくれるか。言われなくてももっとしてほしい事は何だろう。そう思い常に本気で働いたものです。私が本当に幸運だったことが、仕事場の方々全員が本当に心やさしい方ばかりだった事です。実はこの仕事は体が慣れてしまえば全くストレスなく毎日働くことが出来るのです。だから皆さまとてもまっすぐな心をしていらっしゃいました。もちろん事務所にもよるし全員が全員そういう方ではないでしょうけど私の周りはそういう方に恵まれたのです。だからこそ私の仕事に対する姿勢や努力はとても正当に評価して下さいました。私はそれが嬉しくて嬉しくて仕方なかったのです。

 

 入って1年もすればベテランアルバイトです。私は本当に皆さまにかわいがって頂けました。そのころから親方たちは私に興味を持って下さるようになり、よく人生相談や、ごみ収集を通して社会とは何かということを教えて下さるようになりました。ここでご教授頂いた社会への姿勢が今の私を作ってくれたのです。社会大学と親方は仰っていましたが「平穏な兎さん。私たちは大学にはもちろん行かなかったし、学力だって全然ない。でもこうして働くと毎日がなんでも勉強になるんだ。大学でこんなこと教えられなかったでしょ。働くってすごいんだよ。」というこの言葉が、私を仕事する理由となったのです。仕事ってすごいもっともっと社会で勉強したいと思うようになりました。

 

 初出勤から2年がたち、ごみ収集のアルバイトも絶好調でこのままここで生きていくのだろうかと思っていた矢先の事でした。仲良くさせて頂いていた内の1人の親方が私にこう仰って下さったのです。「平穏な兎さん。君は本当に優秀なアルバイトだしうちらとしてはもちろんずっといてほしいと思っている。でも僕は君はこれ以上ここに留まるべきじゃないと思うんだ。この仕事は他の仕事と比べると圧倒的にストレスが少ないから1度この業界で働くと9割の人はこの仕事から抜け出せなくなるんだよ。僕らは正規の公務員としてここで働けるけどやっぱりアルバイトっていう立場だと今後どうなるか分からない。それに君は一緒に働いて確信したけどこんなところで腐っていい人間じゃない。もっと上にいけるはずだよ。もちろん留まりたいというなら止めないしむしろ歓迎だけど、1度よく考えてみたら。」とほほ笑んで下さいました。その言葉はとても心に残り、私を考えさせるきっかけとなりました。実際不安はあったのです。実家住まいで給料は上々。しかし万が一親に何かあったら生きていける給料でないし、何より私の人生これで終わらせていいのかという気持ちがありました。そこで本気で考える事にしたのです。私はこの社会で何がしたいかを。

 

 これを読んでいる皆さまで「私は~がしたい」と断言出来る方はどのくらいいらっしゃるでしょう。実は答えられる方はごく稀なのです。ましてやその本当にやりたい事を仕事に出来ている方はとてもすくないでしょう。私もこの時断言できませんでした。過去に国際系の大学に通い、留学したものの私はこの世界では私は生きてはいけないなと分かっておりました。確かに海外の雰囲気も大好きですし、他国の方とお話することも大好きでした。しかし私の言語能力はこの世界で生きていけるほど高いとはお世辞にも言う事が出来なかったのです。もちろん努力が足りなかった事もありますが何より言語習得に本気で時間を割こうという情熱がどうしても湧かなかったのです。ただでさえシビアな世界でこの程度の覚悟で生きていけるはずがないと思い海外への思いは断ち切りました。では私は何がしたいのか。それを考え続け私は思い出したのです。そういえば私は人間が大好きだったのだという事をです。小さい頃ずっと思い浮かべていた思いであり、過酷な環境を生きる内に忘れ去っていたあの感覚を思いだしたのです。どん底の時から救ってくれた友人たちとの出会いとごみ収集の親方たちとの出会いが再び私をあの頃に戻してくれたのです。結局私は人に汚され、人に洗われたのでした。たくさん嫌な人間に会ってきました。しかしそれ以上に私は彼、彼女達から人間の美しさを学びました。私はポジティブに生きたい。もっと人間と関わってそれを見たい。今まで色々な人間に迷惑をかけたから今度は私が何か手助けしたい。そう心から思い私は決断致しました。接客業で、美しき和の心を学べる場所で色々なお客さんと接して、修行してみたいというのが答えでした。

 

 ごみ収集の最終日はとても悲しかったです。しかし皆励まして下さって「もう戻ってくるなよ!」なんて私の背中を押して下さいました。私はここで巣立っていったのです。

 

 私はまさに運命的としか思えないような出会いで接客業の正社員となる事だ出来ました。今の私の上司に当たる人が直々に面接をして下さったのですが後に彼も「運命的だった。君しかいなかった。」と仰って下さったものです。私は出会いの運だけはあったのかもしれません。

 

 そして働くようになりましたがもちろんごみ収集とは全く違う職種ですので手順なんかはもうちんぷんかんぷん。初めはよく注意されたり、怒られました。しかしあの時鍛えた精神力と体力、そして何をすることが本当に職場の人に、お客さんの喜びに繋がるのかを考えながら妥協せず働く姿勢は本当に役に立ちました。馴れないながらも必死で働くことで私は少なくても自分では成長出来ていると日々実感しておりました。

 

 仕事も半人前とはいえある程度出来るようになった時、接客業をするうえで自分の指針となるような教えはないものかと思い6年ぶりにまた高校生の時に読んでいた哲学書や宗教学を読み返すようになりました。そこで驚きの発見がありました。6年前と同じ書物を読んでいても全く別の書物に思えるのです。つまり精神的に発達したことにより書き手が本当に伝えたいことは何かがはっきり見えてくるようにいつの間にかなっていたのです。私は全部それらを読み返しました。その中でも特に仏教の開祖であるブッダさんのお言葉に私は夢中になりました。例えばここにその1例を載せて、私の見解を述べたいと思います。尚、これが今後私が私のこのブログでやっていこうと思っている事です。

 

「執着があるとそれに酔わされる。それ故にものの本当の姿をみることが出来ないのだ。執着を離れた時、その本質を知ることが出来る。だから執着を離れた心にかえってものは生きてくるのだ。」

解説 

 執着。それは誰にでもあるものでしょうし執着を1つも持っていない人間はこの世にいないのではないでしょうか。例えば物や人に対しての執着。自分の固定観念や価値観にへの執着。プライドや地位なんかへの執着。色々な執着を私たち人間は抱え日々生きております。

 例えば自分の価値観への執着。これは非常に厄介です。私の考えは正しくてそれ以外はおかしい。そう思ってしまう方も少なくありません。特にインターネットでは昼夜己の意見が正しいとお互いに主張し論争となっております。己の考えになぜこうも執着してしまうのか。それは考え、価値観というのは自分の生きた過程そのものだからです。人間というものは皆生きてきたそれまでの自分をどこかで誇っており、それが自信やプライドにも繋がります。ですのでその考えを否定されると自分を否定される様に未熟な方は考えてしまうものです。しかしその自分の考え方をふっと手放してみなさい。そうすると他人の考えの理由や思いがなぜそうなるかがよく見えるしそれを通して自分の考えを見直すと、改善点などが第三者視点でよく見えます。執着し、他人と争うことは無意味です。何も生まれないし、心はどんどん貧しく醜くなります。たとえ相手がそのような人間でもあなたは何にもとらわれずにいなさい。そうすることでその相手の執着ですらあなたの心を立派にする糧となるでしょう。

 

 このような言葉が彼の経典にはたくさん書かれております。私はそれを仏教徒としてではなく、あくまで悩める1人の人間として2年かけて何冊も読み漁り、彼の本当の意図は何かを試行錯誤致しました。そして平行して仏教だけに執着しないよう様々な哲学書も読みながら人生とは、人とは、そして私とは何かを追求し続けました。

 

 私は偉いお坊様でもなければ宗教学者でもありません。しかしある時私は本当の意味で自分は救われたと思う精神状態になった事を覚えております。悟りだとかそんな大それたものではありません。しかし私は少なくても悩み、苦しみ、過去に悩まされてばかりであった自分に打ち勝つ事は出来ました。今私は毎日楽しく仕事をしながらこの美しい世界で生きています。あの常に死ぬことしか考えていなかった可哀そうで常に世の中に怯えていた私がこんな気持ちで今を生きれるとは思いもしなかった事です。私はそうなれた過程の中で本当に素晴らしく、あなた方に知ってもらいたい言葉をこのブログに残します。言葉は人間を変える力があります。もし今あなたが悩み、苦しんでいるお方ならもしかしたらお力になれるかもしれません。それを願い、私は今これを書いています。

 

 ここまでご覧下さった方、そして私を成長させるきっかけとなった方々全てに感謝を述べます。その恩返しではありませんが、1人でも読んでくださっている方の力になれますよう日々ブログを書かせて頂こうと思っております。

 

平穏な兎より